tomo-sさん(id:tomo-s)の日記を読んでいて思ったことをつらつらと。
基本的にTomo-sさんが語っていることとは、違う路線で語ることになるのを前提に。

「ミステリ」の枠が広がってしまっているのは承知。だから、巷で騒がれている国内の作家の作品に手が伸びない。言ってみれば、ミステリと言う枠があるからこそ、食わず嫌いの傾向になっているのだ。東野圭吾の「容疑者Xの献身」にしたって、二階堂黎人が本格議論を開始しなければ、多分未読のままで終わっていた作品だ。
では、「ミステリ」に何を求めているのか。「謎解きのあるミステリ」であることは間違いない。「本格」という堅苦しい概念を求めているのではない。言ってみれば「探偵小説」だったり「警察小説」だったり、いわゆる「推理小説」なのである。
「謎」があって、アプローチの仕方はさまざまあるが、捜査、調査をすることで浮かび上がってくる事実、トリックの解明がなされることで、必然的に「本格」が成り立つと個人的には思うのだ。「本格」を追求するあまり、謎を解くまでのアプローチの仕方がクローズアップされすぎて、評論家の揚げ足とりを怖がるがごとく、「謎解きのあるミステリ」の数が少なくなっているのではないだろうか。
そこで、「謎解きのあるミステリ」を読みたいという読者の要望に答えているのが、近年の海外ミステリに見られる、未訳ものへの着手に繋がっていると感じるのである。「ミステリ」の枠が広がったことによって、古典への回帰という時代に入ったのかもしれない。国内作品についても近い将来、「新本格」が誕生したときのように、原点に戻る動きが出てくることは容易に想像できる。進化の行き着く先が自滅ならば、進化を止めることもまた必要なのかもしれない。それが、「謎ときのあるミステリ」という原点への回帰に繋がっていくのではないだろうか。トリックが出尽くしたとされるのは、ミステリに詳しい人間が言うことであって、一般の読者からしてみれば、出会ったことのないトリックなのかも知れないではないか。新しいものを作り出すことばかりを求めていけばいくほど、袋小路になって「ミステリ」自体の面白さを欠いていくことに不安を覚える。
一般の読者が「ミステリ」という言葉から連想する、「謎ときのあるミステリ」がわかかりやすい形で出てくることを期待するし、評論家やミステリ読みのブロガーが素直に、既出の「謎解きのあるミステリ」を紹介もしくは再評価することで、裾野が広がっていくと考えるのである。